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顕正会ウオッチャーのみなさん、こんばんは。
しばらく夏休みをいただいておりました! 

はじめに、6・7月法戦の折伏成果のご報告です。
公式発表によると、誓願12,000に対し合計23,896名の入信者があり、
これで総会員数は1,911,842名となりました。

来年の200万人達成までは、残り88,158名です。
矢島総務いわく「6・7月法戦としては過去最高」なんだとか? 

そして8月は、顕正会「原点の月」です。
なぜ「原点の月」というのか?

さて、迎える8月は顕正会「原点の月」ですね。
顕正会が富士大石寺の信徒団体として、
ただ広宣流布・国立戒壇をみつめて発足したのが昭和32年の8月。
そして、信徒団体にとって死罪にも等しい解散処分を受けたのが
それから17年のちの、昭和49年の8月でありました。
このように、大事な節目がともに8月にある。
よって、この8月を顕正会の「原点の月」と称しておるのであります。
(平成29年 7月度総幹部会より)

顕正会の「発足」と「解散」が、ともに8月だというわけですね。
かつて「妙信講(みょうしんこう)」と名乗っていた
顕正会の発足を、会長は昭和32年だとおっしゃいます。

しかし、これには賛否あるようです。
あなたは「妙信講」が、いつ誕生したかをご存知ですか?

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ここで、発足の歴史と背景を振り返りましょう。

櫻川忠さんの著書「迷走する顕正会を斬る」によれば、
妙信講の初代講頭・浅井甚兵衛氏は19才で上京、
22歳で日蓮正宗に入信し、妙光寺(東京都品川区)の信徒となりました。

その後、住職の要請により別院(豊島教会所・現 妙国寺)に移籍、
在家信徒として出仕したのち、昭和16年には再び妙光寺にもどって
所属組織を立ちあげ、講頭に就任。翌17年に「東京妙信講」を設立します。 

さらに昭和23年、妙信講は法道会(のちの法道院・東京都豊島区)に移籍となり、
やがて甚兵衛氏は法道会法華講の講頭に就任しましたが、方向性の違いから
内部分裂がおき、昭和32年8月に講頭を辞任したのでした。

甚兵衛氏は昭和32年8月3日、300名の同志を率いて「日蓮正宗妙信講」再建。
日淳上人の計らいで、新たに妙縁寺(東京都墨田区)の法華講支部を設立しました。

つまり、顕正会の前身である「妙信講」の、そのまた前身が「東京妙信講」だったのです。
両者を区別して前者を「発足」、後者をあえて「再建」だという古参幹部もいました。
新しい入信者や幹部諸氏はご存知ないかもしれませんね。

青年部長であった浅井昭衛氏は、当時をこう振り返っています。
顕正新聞・平成5年8月25日号、9月5日号をご覧いただきましょう。

平成5年8月25日号 特別講習会・歴史と使命平成5年9月5日号 特別講習会2・再建
 











顕正会は、昭和三十二年の発足以前は、東京池袋の
法道院という末寺に
所属しておりました。
なぜ「法道院」から離れて「妙信講」として
発足したのかというと、この寺院に所属していては
広宣流布の
御奉公ができないと思ったからです。【中略】

しかしこの人の心にあるのは、広宣流布への大道念ではなく、
僧侶としての栄達だったのです。【中略】
こんなことをやっていては、折伏弘通ができるわけがない。
当時、法道院法華講の青年部長だった私は、直言をした。
しかし「見解の相違だ」といって受け入れられなかった。【中略】

ーこのままでは広宣流布の御奉公ができなくなるー
考えぬいた末に、
法道院法華講の講頭を務めていた父とよくよく話し合った上、
ついに決意をし、苦難を覚悟の上で、法道院を離れ、広布の前進を開始した。
このとき父は五十三歳、私は二十五歳でした。

(平成5年8月 特別講習会「顕正会の歴史と使命」より)

法道院を離脱した際のご心情を吐露されています。

あくまで、浅井父子側の言い分です。「広宣流布の御奉公」という
大義名分を掲げてはいるものの、浅井昭衛さんという人はプライドが高く、
宗門の方針に難癖をつけては、住職に楯つく厄介者だったのかもしれません。

さらに、おなじ信徒団体だった創価学会・池田大作氏の躍進を
意識しない訳がないでしょう。宗門や寺を支える檀家信心よりも
独立教団をつくって拡大させ、一族を繁栄させたかったんでしょうね。 

教学機関紙「冨士(平成10年廃刊)」創刊号をご覧ください。
ある時期までは、新生・妙信講のことを、以下のように表現したのです。

冨士 昭和36年 創刊号表紙冨士 昭和36年 講頭「発刊の辞」

















現在では冒頭のごとく「発足」と呼ぶのがスタンダードですが、
甚兵衛さんは「昭和三十二年八月三日再建以来…」とおっしゃっています。

そういえば、あの発足50周年記念幹部大会(平成19年・エムウエーブ)も
40周年記念幹部大会(平成9年・横浜国際会議場)も、昭和32年を起点としていました。
しかし組織では、古参幹部がたびたび「再建」と口にしていたのを思い出します。

顕正新聞・平成9年8月5・15日号を掲載します。

平成9年8月5・15日号 40周年記念幹部会平成9年8月5・15日号 40周年記念幹部会講演













発足40周年の講演を読むと、すでに「再建」の文字は消えていました。
なぜ、妙信講の「再建」は語り継がれなかったのでしょうか?

それは古参幹部が指摘する、亡き甚兵衛さんの哲学の衰退です。
草創期には私財を投じて宗門に尽くし、初代講頭として
数々の辛酸をなめた甚兵衛さんを知る現役幹部も、いまや少数となりました。

ただ広宣流布・国立戒壇をみつめて発足したのが昭和32年の8月。
(平成29年 7月度総幹部会講演より)


講演を再掲しました。「広宣流布・国立戒壇建立」という
日蓮大聖人の御遺命実現のために法道院から独立したのだから、
この時こそ「発足」と呼ぶべきだ、という解釈も成り立ちますが。

初代講頭なくしては誕生しなかった妙信講なのに、
甚兵衛さんの基礎工事にあやかりほとんど苦労をしなかった昭衛さんが
手柄を横取りしたような、草創期の苦節を無にされたような寂しさを感じます。

けれども、それも思い過ごしかもしれません。
顕正新聞・平成19年9月5日号をご覧にいれましょう。
発足50周年記念幹部大会で、浅井昭衛さんはこうおっしゃいました。

平成19年9月5日号 50周年幹部大会・全体大平成19年9月5日号 50周年・初代講頭先生








そして何よりも本日この席に、もし初代講頭先生が……おられたら、
どれほどお悦びかと、私は先ほどから、思っておりました。【中略】

その初代講頭先生が……もし本日、この幹部大会をご覧になったら、
いかにお悦び下さるか、そのお顔が、いま瞼に浮かんでまいります。

やはりお父上です、どこまでもお慕い申し上げているに違いありません。
けれども、昭衛さんは多くを語らない。だから妙信講の基盤を築いた
父・甚兵衛さんの苦節を、新しい会員は知りたくとも知る機会がないのでしょう。

やや複雑な心境ですが、当ブログでは現代の公式見解にもとづき、
昭和32年の新生・妙信講をもって「発足」と位置づけることにします。
40・50周年につづき60周年記念幹部会も期待したのですが、今年はなさそうですね。(涙)

先月の多摩会館御入仏式では、昭和32年、妙信講が東京都文京区音羽の
甚兵衛さん宅を本部として始動したこと、東京都板橋区の本部会長室で
昭衛さんが『解散処分通告書』をご覧になった当時の講演があったもようです。

初代講頭・浅井甚兵衛さんは昭和59年4月、80歳でご逝去されました。
わたしは、甚兵衛さんの生前を語る浅井昭衛さんがわりと好きでした。
御入仏式でどんな講演があったのか、楽しみですね。

きょうは顕正会の「発足」と「再建」についてお話ししました。
最後に予告です。

次回の【プレイバック顕正会】では、8月「原点の月」にちなみまして、
顕正会の「解散処分」をめぐる特集をお送りいたします。

あなたの妙信講時代や「解散」にまつわるエピソード、
また「発足」や「再建」に関するご意見もお待ちしております。

顕正会がやらないなら、勝手に発足60周年を記念して
ブログで特別講習会をやりましょ♪という企画です。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。どうぞお楽しみに。


 


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